滝 久雄 著『貢献する気持ち』本文の一部をご紹介します。
人間は本来、自分の本能を自然に愛するようにできている。本能をあるがままに感じて、しかも虚無感や無常観から解放されたその瞬間に、「貢献心は在って見えなかったもの」から「見えるもの」へと飛翔する。それはしばしば本能のように逆らいがたい力動で、眠っていた理性を突然呼び覚ますこともあれば、また前述の友人の兄の場合のように、危機的な状況下で発動される使命感を生むこともある。
いずれにしろこの本能は、死といった危機的な状況のもとで、その恐怖から解き放ち、時には人がなかなかできないテーマに立ち向かうような使命感を与え、時には時代そのものをも動かすほどの力を社会全体にもたらすこともあるのである。
(60頁, 11行~62頁, 3行)
ふつう、私たちは他人のために行う行動に対して、努めて精神性を前提として身構えようとする。たとえば自分から他人に尽くそうとするとき、おそらく相手は感謝するだろうと無意識のうちに推察してしまう。ところがもし、自分が他人のために行動を起こしたくなったとき、そんな時自分の心の内側を見つめてみれば、学習して獲得されるような精神的な心の作用とは異なる素朴な幸福感を発見することができるだろう。そしてそこに本能に似た満足感を感じた瞬間、貢献したい気持ちに対する従来的な理由づけがわざとらしいことに気づいてハッとする。
私たちは本能をなぜか低位な欲求と位置づけ、競ってそれらを戒める習慣がある。しかし本能には、人間の生命を維持するための不可欠な側面があることを誰もが知っている。しかも他者に尽くそうとする貢献心の中にも、自分を満足させたいとする欲求が明確に刻み込まれているのだ。それらをむしろ自然に受け止めて、ここでは「貢献心」を人間だけに与えられた本能とみなすことにしよう。それが「貢献心は本能だ」と考える私の基本的な姿勢であり、つまりそれは「他人のため」を「自分のため」と割り切ることである。すると自然に新たな境地がひらけてくる。
(72頁, 14行~73頁, 13行)
私はこの観点から人類を「ホモコントリビューエンス」と名づけたい。それは「貢献仲間」という意味である。「遊び」や「学習」、「仕事」や「暮らし」といった四つのモードでは説明できない人間の側面が、この「ホモコントリビューエンス」という言葉から浮かび出てくる。それは人生のなかで自分が生き、また生かされているといった意味をも含む。
先の四つのモードに、新しい「貢献」という第五のモードを加えると、人生の展望がずっと明るくなってくる。しかもそこから人と人との結びつきが滲み出し、ある拡がりをもって感じられ、「自分」が一層鮮明に浮き彫りにされることがわかる。
(77頁, 12行~78頁, 4行)
さらに貢献心から他者に尽くそうとしたとき、その本当の動機は貢献の対象に感じるような「他者のため」にあるのではない。たとえそれらがきっかけの一つになっていたとしても、まず最初に他者に尽くしたいと思う自分の欲求があるはずだ。つまり他者に尽くそうとする人は、「自分ごと」として貢献心を発揮しようとする。貢献心は「自己犠牲」からのものではなく、むしろ本能からの「自己主張」に近い。
(113頁, 10行 ~14行)