12月25日に刊行された幸津國生著『「貢献人」という人間像』(花伝社)に、滝久雄著『貢献する気持ち』の文章が以下の形で引用されました。(P100-117)

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第4章 「ホモ・コントリビューエンス」
―「貢献人」という人間像への問いに対する原理的な答え その1 ― および「人」の「心」

1 「ホモ・コントリビューエンス」

 近年<貢献>する態度を原理的に探究する立場として、人間の「貢献する気持ち」のうちに「ホモ・コントリビューエンス」としての人間像を見る立場(滝久雄『貢献する気持ち ホモ・コントリビューエンス』参照。後述参照)が提唱されている。この立場は、一つの希望をわれわれに抱かせる。すなわち、<人間>というものには本来この人間像の示すような在り方(本書では「貢献人」と呼ぶ)をする可能性があるかもしれないという希望である。

 一般に人間を全体として描こうとするとき、どこに焦点を当てるのかという点については『貢献する気持ち』の著者による一人ひとりの人間の人生の「人生のモード」の把握とその中での「貢献心」の位置づけが参考になる。同著者によれば、「人生のモード」は一般に「遊び」・「学習」・「仕事」・「暮らし」の四つの「モード」から形づくられているのであるが、さらに第五のものとして「貢献」を挙げることができるという(滝2001:75-78参照)。そこで同著者が「人間に固有な本能」であると考える「貢献心」に着目すると浮き彫りにされてくるという「新しい人間の全体像」は「ホモ・コントリビューエンス」(Homo contribuens)と名づけられ、「貢献仲間」を意味するものであるとされる(同10,77参照)。

 このラテン語名を日本語に直訳すれば、同著者自身は用いていないが、「貢献人」となろう。本書としては、同著者による命名の文脈からは一応離れて、<貢献>する<人間>という本書の文脈によって、また同著者の挙げている従来の他の人間像の名称(「ホモ・ルーデンス」=「遊戯人」、「ホモ・サピエンス」=「知性人」、「ホモ・ファーベル」=「工作人」[同77参照])との対比をも考慮して、本書の主題である人間像の名称を日本語で表現して、「貢献人」と名づけるとしよう。ただし、これに対応するものとしての外国語名については、同著者によるラテン語名に従うことにしたい。

 同著者によれば(滝2001:78-79参照、以下同ページ)、四つの「モード」と第五の「貢献」という「モード」とには次の違いがあるという。前者で説明されるものが「人生の個人的な側面」であるという。

 事実、「遊び」、「学習」、「仕事」、「暮らし」といった四つのモードだけで説明されるものは、人生の個人的な側面だ。もしそれを自分の現実にあてはめようとしても、どこか自分の存在感を欠くものにならざるをえない。なぜならそれは、あたかも個人の人生を分析的にとらえて、他者との関係を考慮することがないからである。その考え方は一見客観的に思われるかもしれないが、人生が総合的なスペクトルを放ち、しかもとどまるところがない変化を教えてくれはしない。

 これに対して同著者は、後者の「貢献」という「第五のモード」について言う。

 先の四つのモードに、新しい「貢献」という第五のモードを加えると、人生の展望がずっと明るくなってくる。しかもそこから人と人との結びつきが滲み出し、ある拡がりをもって感じられ、「自分」が一層鮮明に浮き彫りにされることがわかる。

 これは興味深い指摘である。つまり、「人生の個人的な側面」を示すものが「自分」の輪郭を示すのではなくて、かえって「他者との関係」において「自分」が浮き彫りにされるというのである。こうして「他者との関係」が「自分」の内容を支えることになるわけである。同著者は、それを「人生の地図」としている。すなわち、

 第五の「貢献」モードを他の四つに加えることで、前途に何が起こるかもしれない人生について、今からおおよその地図が描けるようになる。このモードを頭の片隅に置いておくかぎり、人生への充実感が拡がって、節目々々で迷ったとき不足しがちな決断力を補い、自分が進むべき道を選択するためのいわば補助線になるのである。

 他の四つの「モード」では「カバーし切れない人生の領域」として、ボランティア、地域社会での公共的活動、他人のための自発的な行動、親子の関係などが挙げられている。そこでこそ「ホモ・コントリビューエンス」の概念が働くとして、そのことを感得するようにと勧められている。

 また「貢献」モードは、他の四つのモードではカバーし切れない人生の領域を明確に縁どる。たとえばボランティアというような「仕事」とも「暮らし」ともつかない、かといって「遊び」でも「学習」でもない行為の領域が挙げられる。また「仕事モード」と関係しながら、経済行為とは判断しがたい地域社会での公共的活動や、他人のための自発的な行動や、さらには親子の関係などあらゆる人間関係に起きる事柄の本質が、「ホモ・コントリビューエンス」の概念を通して明瞭に見えはじめるのを実感して欲しい。自分にもまた他人にも、貢献心があると観ずることをさまざまなケースで自ら感得し、修得していただきたいのである。

 この立場が主張されることは、われわれを取り巻く現代日本社会における状況を見るならば、非常に意味深いことであろう。そのように言うのは、次の事情からである。すなわち、この立場は<人間>であることとはどのようなことかという根源的な問いをめぐって新しい人間理解へと向かうようにわれわれを促すという事情である。それは前述したようにとりわけ人間相互の関係をめぐって、「いま」われわれはこのような人間像とは相反する先のような報道が日常的になされているような状況に置かれているという事情である。これに対してこの立場が主張されることによって、このような状況があるにもかかわらず、人間の生き方というものは少なくともそのような状況によって規定されたまま生きることに尽きるような生き方には限られないということがあらためて強調されるわけである。そこでこのような強調に基づいて、あらためて、ではどのような生き方が人間には求められるのかが一人ひとりの人間に問われるであろう。つまり<人間>であることとはどのようなことなのかが問われるのである。

 ここで注目されるべきことは、この事情において<貢献>するという態度と<人間>であることとが結びつけられているということである。そこで問われるのは、この結びつきは何を意味するのかということである。これら二つのことの結びつきは、この態度をめぐってこれまでとは異なる評価の仕方が登場しているということに顕著に現れている。したがって、当の結びつきの意味をめぐって、では、そこにはどのようにこれまでとは異なる評価の仕方が生じているかが問いの焦点となるであろう。それ故、その相異について述べよう。

 まず、これまで何らかの人間の態度については、次のような仕方で評価がなされたと言えよう。すなわち、<貢献>する態度は肯定的に評価される態度として取り上げられることが多かった。そこでは、この態度はとりわけ道徳的視点から肯定的に評価されると考えられる。この点は、前述のように、「貢献」という語の通常の用法においても、さらにこの用法を超える「社会貢献」という用語の用法においても見られるであろう。このような理解のもとでは、当の態度が一人ひとりの人間に求められているのだが、それがどのような根拠に基づいているのかは必ずしも明らかではない。この根拠が明らかにされるならば、「貢献」する一人ひとりの人間はこれまでよりも深く確信して、この態度に基づく活動をさらに進めることができるであろう。仮にそれが道徳的に評価されるという点ではこれまでの捉え方と変わらないとしても、とにかく明確に根拠づけられることによって、一人ひとりの人間はそのような活動を進めることに確信を持つことができるようになるであろう。しかし、このことに確かな答えを与えることはなるほど望ましいことであるとしても、非常に難しいことである。というのは、或る事柄について道徳的評価を与えることについて何をもってその根拠と見ることができるのかという点をめぐっては、様々の思想的立場からの答えがありうるからである。

 これに対して別の評価の仕方が登場している。すなわち、先に触れたように、近年提唱されている立場としてこの態度を「本能」として捉え、したがってこれを特別に取り上げて道徳的評価の対象にはしないという立場からの評価の仕方である。確かにこの立場も一つの思想的立場ではある。しかし、この立場には他のもろもろの立場とは異なるところがある。というのは、この立場は<貢献>する態度に対する道徳的評価をめぐって、これまでの立場とは違っているからである。すなわち、ここで言うこれまでの立場とはこの態度を一人ひとりの人間が他の人間に対して取るべき態度であるとして道徳的に評価し、その道徳的評価の根拠づけをいわばその人間の外面において行ってきた立場である。これに対して当の態度を「本能」とする立場は、このように一人ひとり人間の外面において行われる道徳的評価の根拠づけをその人間の内面において位置づけるものである。そこには<人間>というものについての別の立場がある。すなわち、それはこの根拠を当の態度を<人間>というものの「本能」に基づくとすることによって、この態度を道徳的に評価すること自体を超えるのである。この立場に基づくならば、この態度は一人ひとりの人間がただ道徳的に取るべき態度であるのではなくて、むしろその人間が生きようとする際の<人間>としての一つの「本能」であることになる。すなわち、この態度はその人間の内面に備わったもの、つまり一人ひとりの人間が<人間>である限り一つの「本能」としてもともと与えられたものとして捉えられるというわけである。そのことによって、これまでとは異なる立場から<人間>を捉えることが可能になるであろう。

 では、そもそも<人間>にこのような「本能」があるのかどうかということをめぐっては、いろいろな議論がありえよう。

(中略)

 そこで、この態度を「本能」に基づくものと捉えるのかどうかはともかく、そのような態度を取ることが時代の違いを超えて、一般的に言えば歴史を超えて、<人間>そのものにとって不可欠の部分としてある(そのようなことがありうる、あるいは、あるべきである、とすることも含めて)のかどうか、という問いを立てよう。そしてそのような問いへの答えを求めることで、<貢献>するという態度についての問いへの答えに少しでも近づきたい。

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