「貢献心は人間の本能である」との認識のもと、人間の生き方と、実践の道を探求します

論考『貢献する気持ち』

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初めての人向けに、滝久雄著『貢献する気持ち』(2001年、紀伊国屋書店)のエッセンスを抽出し、著者自らが解説を加えた論考を以下に公開。文庫本10ページ程度のボリュームで、気軽にお読みいただけます。

滝 久雄 著
挿画 日本芸術院会員 大津英敏
(2009年5月)

目次

  • 貢献心という本能
  • ふたつの哲学的体験
  • 貢献心は自己の主張
  • 人間は貢献する仲間

 

貢献心という本能

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 私は人間の本質について休むことなく考えてきた。そして、人間は生きていくために様々な本能を授かっているが、貢献心も人間に欠かせない本能であるという哲学的な真理にたどり着いた。

 その考察は著書『貢献する気持ち』(紀伊國屋書店)としてまとめたが、そのなかで私は、誰もが生まれながらに備えている本能としての「貢献心」について次のように述べた。

 

 「貢献心」を本能として、自分を他者のために役立てたいと志す自然な気持ちを「自然から授けられたもの」と見るのが、これから私が主張するところである。それは知性からのものではなく、生まれながらに備わっている本能に起因していて、自然に湧き出してくるものである。つまり「貢献心」とは、けっして後天的なものではなく、むしろ先天的な欲求なのである。(『貢献する気持ち』より)

  

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 多くの読者は、本能というと食欲や性欲などをまず思い起こすのではないだろうか。私が述べる「貢献心」はそれらとは違うところにあるものだ。ここで私たち人間の本能について改めて確認しておこう。

 

 本能とは、人間が生きていくために自然から授かった生来の能力であって、目的をもって後天的に身につけるものではない。それは人間の因果律に属し、自然に湧き出してくるものであって、それゆえ人間の合目的律に属すものではない。

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 一方、「貢献心は本能だ」といっても、それは「心」から発する本能であって、食欲や性欲など「身体」からの本能とは異なる。一般的には本能というと食欲や性欲など生理的なものを指すが、これらを「体質的本能」とし、貢献心を「心質的本能」として、一応、色分けしておくことにしよう。ただし、いずれも人間の因果律に属する本能であることに変わりはない。

 ふつう、私たちは他人のために行う行動に対して、努めて精神性を前提として身構えようとする。たとえば自分から他人に尽くそうとするとき、おそらく相手は感謝するだろうと無意識のうちに推察してしまう。ところがもし、自分が他人のために行動を起こしたくなったとき、そんな自分の心の内側を見つめてみれば、学習して獲得されるような精神的な心の作用とは異なる素朴な幸福感を発見することができるだろう。そしてそこに本能に似た満足感を感じた瞬間、貢献したい気持ちに対する従来的な理由づけがわざとらしいことに気づいてハッとする。

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 私たちは本能をなぜか低位な欲求と位置づけ、競ってそれらを戒める習慣がある。しかし本能には、人間の生命を維持するための不可欠な側面があることを誰もが知っている。しかも他者に尽くそうとする貢献心の中にも、自分を満足させたいとする欲求が明確に刻み込まれているのだ。それをむしろ自然に受け止めて、ここでは「貢献心」を人間だけに与えられた本能とみなすことにしよう。それが「貢献心は本能だ」と考える私の基本的な姿勢であり、つまりそれは「他人のため」を「自分のため」と割り切ることである。すると自然に新たな境地がひらけてくる。(『貢献する気持ち』より)

  

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 私が人間に固有の本能的な欲求として捉えた「貢献心」という用語は、哲学の分野でいち早く認められ、『現代倫理学辞典』(弘文堂刊)の「功績」の項目に著作『貢献する気持ち』からの文書引用とともに紹介されている。

 また、「貢献心」を世界のより多くの人々に知ってもらう機会も得た。私の著作『貢献する気持ち』の英文版が、2008年に『HOMO CONTRIBUENS』というタイトルでイギリスのルネッサンスブックス社より刊行されたのだ。

ふたつの哲学的体験

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 私が「貢献心は人間の本能」という真理に至る人間の内側の考察を始めるきっかけとなったのは、中学二年生のときに目の当たりにした友人の兄の死である。

 その当時、まだ高校生であった友人の兄は、ガンを告知されると一心不乱に遊び始めた。しかし、死の三カ月ほど前になると遊ぶことをぴたりとやめ、それまでの生活がうそだったように勉強を始めたのだ。

 彼が死をどのように受け止めたのか、最期の時間に何を思って勉強に打ち込んだのかはわからなかったが、私はその姿に崇高なものに触れたような気持ちを抱いた。そして、まもなく死んでしまうことがわかっているのになぜ彼は勉強を始めたのだろうという疑問が無常観とともに私の心に残ったままになった。

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 それから後、私はその疑問に対する答を求めて考えた。夜眠る前になると彼のことが頭の中に浮かんできて、眠りにつくまでの数分程度の短い時間ではあるが、ほぼ毎日のように考え続けることになった。そして、やがてある直感めいた考えに行き当たった。彼のあの行動は人間に生まれつき備わっているある種の本質によるものなのではないだろうかと。そう考えると納得できた。

 

 私はプラトンの思想をとおして、貢献心が本能であると認識したわけではない。私はさまざまな思想をめぐっていく過程で、この心質的な感情が自然な本能であったと、そしてそれが死のような危機的状況をとおして発現されやすい性質を秘めていることを理解するに至っている。また理性によって獲得される使命感の背景には、「ホモ・コントリビューエンス」としての人間の大切な特性である貢献心という本能があることを、ある確信のもとに推察した。しかも「貢献心は本能だ」といった認識から、至上の成果物として使命感が生まれるのではないかと、私は半生の折節ごとに感じもしたが、これらの考察はプラトンの思想からのものではない。(『貢献する気持ち』より)

  

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 私のなかに芽生えた「貢献心は人間の本能である」という真理は、哲学の先人たちの教えを学ぶことによって導かれたものではなかった。友人の兄の死を通じて出会うことになった哲学的な体験の後、人間の本質的な心のありかを見ようとして日常的に思考を重ねることでたどり着いたのだ。

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 その後、私の哲学を確立する決定的ともいえる出来事が自らの身に起こった。

「膝の骨に腫瘍があります」

 主治医の診断を聞かされたのは三十代の半ばのことだ。脚に鋭い痛みを感じ、肉離れにでもなったか・・・と診察を受けたときだった。病名はジャイアント・シェル・ツーマといい、その病期は第一種から第二種、第三種、そして第四種の骨髄ガンまでの四つに分類されることを知った。第三種から第四種の骨髄ガンにまで進んでしまうと深刻で、幹部を切除しても転移を繰り返し、肺や脳に転移し、やがて死に至ることもあるという。

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 当然のごとくショックを受け、死が間近に迫ってくるような緊張感を覚えた。友人の兄がそうであったように、自分もまた死ぬその時まで前向きに生きていられるはずだという信念も揺れた。しかし、ある瞬間にまるで頭の中の霧が晴れるように、「自分に残された時間を後世のために生かしたい」と明確に自覚することができた。

 私の膝の腫瘍は第二種で進行性のある状態ではあったが、手術が成功し、幸いにも再発を免れた。闘病中に湧き上がってきた「後世のために自分を役立てたい、貢献したい」という思いは快復後も萎えることはなく私の中に存在し続けた。その事実が「貢献心は人間の本能である」という哲学的な真理を明確なものにしてくれた。

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 「人間の本能である貢献心」は、実は「無くて見えないもの」だったのではない。むしろ「在って見えないもの」だったと考えることができる。この二つは、双方とも人に「見えない」点では同じであるが、本質的にはまったく異なっている。(『貢献する気持ち』より)

 

 私は「貢献心」という見えない本能が存在することを確認することができたのだ。そのときの想いを私は前著にこう記した。

 

 人間は本来、自分の本能を自然に愛するようにできている。本能をあるがままに感じて、しかも虚無感や無常観から開放されたその瞬間に、「貢献心は在って見えなかったもの」から「見えるもの」へと飛翔する。それはしばしば本能のように逆らいがたい力動で、眠っていた理性を突然呼び覚ますこともあれば、また前述の友人の兄の場合のように、危機的な状況下で発動される使命感を生むこともある。

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 いずれにしろこの本能は、死といった危機的な状況のもとで、その恐怖から解き放ち、時には人がなかなかできないテーマに立ち向かうような使命感を与え、時には時代そのものをも動かすほどの力を社会全体にもたらすこともあるのである。(『貢献する気持ち』より)

 

 心理学では、経済や教養、社会的地位などに満たされた人は社会貢献など他人のために役立ちたいと思うようになるのだと説明されることがある。当時の私の「貢献心」もまたその産物だったのだろうか。けっしてそうではない。

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 まだ若かった私は社会的な地位も力も満たされていなかったし、それどころか人一倍負けん気が強く、さまざまな欲も大いに抱いていた。その私が命の危機が去った後も「人の役に立ちたい、人の幸せのために自らの力を使いたい」と考えるのは人間の本能によるものなのだ。

 

 人間が死のニヒリズムから解放された時に見えてくる心の内側に、自然な本能の一つがあるならば、きっと「他者に対して自分を生かしたい」とする気持ちが浮き出してくる。しかも、自分の死を賭せるような使命感があるのなら、そこにまた「貢献心は本能だ」と感じている自然な気持ちがあるはずだ。(『貢献する気持ち』より)

貢献心は自己の主張

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 日本の若い人のほとんどは、まだ自分の死を身近に感じることもないので「貢献心は人間の本能である」と言われても実感できないかもしれない。しかし、今日の社会においても人間の持つ「貢献心」が見聞きする機会は決して少なくない。ボランティア活動などはそのいい例ではないだろうか。

 タイではHIVという問題に対して一万人ものボランティアが働いている。カンボジアでは多くのボランティアが地雷除去に取り組んでいる。そのようなボランティア活動を続ける人々に会って話を聞く機会もあったが、彼らは使命感にあふれた素敵な表情をしている。

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 貢献心から他者に尽くそうとしたとき、その本当の動機は貢献の対象に感じるような「他者のため」にあるのではない。たとえそれらがきっかけの一つになっていたとしても、まず最初に他者に尽くしたいと思う自分の欲求があるはずだ。つまり他者に尽くそうとする人は、「自分ごと」として貢献心を発揮しようとする。貢献心は「自己犠牲」からのものではなく、むしろ本能からの「自己主張」に近い。(『貢献する気持ち』より)

 

 そうなのだ、他のためのボランティアはそれに取り組む自分のための行ないでもあるのだ。そのことは「貢献心」という発想があれば容易に理解できる。それは見方を変えれば、次のようにも言える。

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 人の心は、さまざまな情念の複合体である。慈愛だけでも憐れみだけでもなく、また単なる自尊心や虚栄心だけでもない。それぞれの情念は微妙に絡み合っているのが人間本来の姿なのではないか。しかし自尊心や虚栄心というような「自分に対する想い」にとどまっているかぎり、「他人に対する自分の想い」が自分のためになるという貢献心のもつ不思議な力は発揮されないのである。(『貢献する気持ち』より)

  

 人の役に立ちたいという思いは私たちの本能なのだ。人が生きていく上で、もちろん会社で仕事するときにも、自らの「貢献心」を惜しみなく発揮することは自らを幸福にすることにつながるはずである。

人間は貢献する仲間

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 私たちの人生とは何か。その実体を捉えるためには、人の生活全体の営みをいくつかの要素(モード)に分解してみるといいだろう。

 

 個人の人生は、音や光のスペクトルと同様にさまざまな振動モード(様態)が合成されていて、全体的な現象となって表れているのである。この全体を「人生のモード」と考えれば、一般にそれが「遊び」や「学習」、「仕事」、「暮らし」といった四つのモードから形づくられていると考えられる。そしてこれらの要素は、全体が一つとなって個人の人生を形づくると同時に、それぞれが独立したモードとしてとらえることができる。またそれぞれのモードの間に共通部分があることもあり、また互いに対立しあうこともある。(『貢献する気持ち』より)

  

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 私はこの四つのモードに「貢献」モードを加え、人生を五つのモードで捉えたいと考える。人間は「貢献心」によって特徴づけられるからだ。そして、人間を「ホモ・コントリビューエンス(貢献仲間)」という造語で表現することを試みた。

 

 人類を「ホモ・コントリビューエンス」と名づけたい。それは「貢献仲間」という意味である。「遊び」や「学習」、「仕事」、「暮らし」といった四つのモードでは説明できない人間の側面が、この「ホモ・コントリビューエンス」という言葉から浮かび出てくる。それは人生のなかで自分が生き、また生かされているといった意味をも含む。

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 先の四つのモードに、新しい「貢献」という第五のモードを加えると、人生の展望がずっと明るくなってくる。しかもそこから人と人との結びつきが滲み出し、ある広がりをもって感じられ、「自分」が一層鮮明に浮き彫りにされることがわかる。

 一方、第五の「貢献」モードを他の四つに加えることで、前途に何が起こるかもしれない人生について、今からおおよその地図が描けるようになる。このモードを頭の片隅に置いておくかぎり、人生への充実感が拡がって、節目々々で迷ったとき不足しがちな決断力を補い、自分が進むべき道を選択するためのいわば補助線になるのである。(『貢献する気持ち』より)

  

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 ある著名な工学博士からは、「貢献心はヒト脳に固有の性質であり、人類が一万年も前に人間圏を創り得たのもその本能があったからではないか。貢献心は将来的な脳科学の大きなテーマとなり得るものである」という評価もいただいた。また、理工、医学、哲学、宗教など幅広い分野から集結し、「貢献する本能を持つ人間 ― ホモ・コントリビューエンス」を研究する会も設立され、さまざまな視点から「貢献心」が議論されている。

 使命感は人間の「貢献心」が本能であることの至上の成果物である。そして、「貢献心」を自覚することで積極的な生き方ができ、それは仕事にも生かされると私は考える。(了)

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